【モノをつくるということ】

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お久しぶりです。レチョ子です。

また日にちが開いてしまいました。
お決まりでまたモノをつくるのに没頭していました。

文字を打つことも好きだし、
毎日文字を打っていないといろんなカンが鈍るので、
短い文章でも書いた方がいいのはわかってはいるのですが
なかなか日記のページを開けなかったりします。

何か物質として作る作業をするときは
頭がそのモードになってしまうんだろうと思います。

今回は、大人用の2部式の浴衣と、半幅帯を4本作っていました。
今年は2ヶ月の間に、
人形の浴衣と人間用の浴衣を15枚縫ったのでなんか頭大丈夫かなって思います。
そのうち、4枚は子供浴衣、1枚は大人用です。

レチョ子はなんちゃって着物が好きなので、
いつか自分でも着物用に用意されたテキスタイル(布)ではなく、
普通のテキスタイル(布)で作ってみたいなぁと考えていたので、
今年はそれが叶って良かったです。

何をするにも腰が重いので、
自分の為に作るとかいう動機よりも、
「人から頼まれる」そういう外的要因の動機の方がなにかできるように思います。

今回人にお渡ししたものは、
喜んでもらえるものが出来たのではないかと自負しています。
そう思える瞬間の為に
なにかを作るとうのも動機の一つではないかなと思います。

そして、私はなんちゃって美術系の学校にいっていたのですが、
その時から何かを作るということがまあ、わかりやすく言うと好きだったんですよね。
でも、ある教授が、

「モノを作る事は誰にでもできる。君たちは無駄な物(ゴミ)を生産しているにすぎない」

そのような趣旨の話をされたことがあり、
私をはじめ数人の友人はテンションがダダ下がったということがありました。

まあ、実際、何かを作っても最終的には用が無くなり
要らない、必要とされない無駄な物になります。
間違っちゃいないけど、
それを言ったらお終いだわって所ではあります。
だってすべての物も、ひいては人もそうだから。

でも、
私はその無駄と言われているものを作りたいという気持ちはずっとあり続けています。
時期によりその思いの強弱はありますが。

何度か何かを作るという事をもう辞めようと思いました。
それは形が残るものであったり何かしらの絵や文であったりします。
それが、プロの足元にも及ぶことの無いことは、今までの経験でわかっています。
努力してもそこに到達できない才能、運によるものが大きいというものを私は知っています。
勿論、どんなに認められなくても高みに向かって努力し続ける前向きな精神力も才能だと思います。
私にはそれもありません。

今は、趣味として自分が楽しいと思うことをして、
その副産物として、
何人かの人が喜んでもらえるということが一番身の丈にあっていて、
私も周りの数人も幸せなのではないかと思います。

でも、たまにあるんですよね。
より多くの人に認められたいという欲。
それは、モノを作っている人の業だよねという話を昨晩旦那としました。

彼もまあモノを作ったりする事が好きな人種なので、
そういう欲についても理解があります。

彼と私の決定的な違いは、
「自分の作ったモノを認めない人に対して心を砕くか砕かないか」
その点だと思います。

勿論自分自身もいいと思えないものをいいということは出来ないのですが、
それでも認めて欲しいという気持ちになる時があります。
普段は、先ほど書いたような気持ちでいるのですが、
そういう衝動の波があります。

旦那にはそれがあまりない。
わかって貰えないのは、相手が自分のつくったものの良さに気づけないだけだからだと…

…おいおい…
自意識過剰だなと思いますが、
プロでやるのではなく趣味で何かを制作するのであれば、
こういう気持ちでつくるのが私は幸せだと思っています。

それに、
日本でも「100均で買える」からという話で済ませられる事もありました。

それを聞くと、
「ああ、私が作ったモノは100均で売られているもの以下の価値しかないんだな」と。
100円以上の材料費を掛けて、
時間(時給)を掛けてもそういう評価なんだなぁと。
出来たものが、お金を掛けても時間を掛けてもそれ以下のクオリティなら仕方ないですが。

人の価値観を間違っているとか、
それはおかしいということも何か違うという事は理解しています。
それも間違ってはいない。
でもなにか、引っかかる。

ここ最近モノを作っていてなんとなくぼんやり思った、
そんなレチョ子です。


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